ロンドン１０日間
短大生の我が娘は学業よりバイトに熱心である。しかし年の暮れ、思いがけず失職してしまったらしい。当然蓄えなど何もないから計画していたヨーロッパ旅行が流れてしょぼくれていた。
たまたま私はロンドンへ撮影に行く予定だったので声をかけてやった。
「おい、小遣いまでは面倒見られないが一緒に行くか？」
一瞬娘は回転のにぶい頭で考え込んだが仕方なさそうに応えた。
「ほんとうはパリにいきたいんだけどな。たまには親孝行してやるか」
「ふざけるな。いやならよせ」
かくして我々は「ロンドン１０日間」というホテルだけ確保されたツアーに参加することとなった。
ヒースロー空港には現地旅行社のバスが来ていて総勢２０人くらいの参加者をそれぞれのホテルに落としていく。私と娘は最後になって大型ビジネスホテルというおもむきの宿に放り込まれた。
地図を見ると最寄りの地下鉄駅はラッセルスケア、大英博物館のそばらしい。
夜も遅いし寝るしかなさそうだ。私は成田で買った赤ワインを空け、娘はケーキのようなものにかぶりついた。今更話すこともなくそれぞれが勝手に寝る。
朝食はホテル内のレストランかと思っていたらフロアの一室へ取りに行くらしい。
朝食を運んできた娘は金髪のお兄ちゃんがパンを余分にくれたという。そんなことで喜ぶな。バカめ。
地下鉄でヴィクトリア駅に行き、サウスイーストパスに使用開始のスタンプを押してもらう。
イギリスの鉄道パスで知られているのはブリットレイルパスだがほかにも地域限定（アイルランド。スコットランド。ウエールズなど）の割安パスがある。サウスイーストパスはロンドンからの日帰り圏をほとんどカバーしている。地下鉄やバスのフリーパスも付いているからロンドン基点の旅行者にとってありがたい存在だ。
私は撮影、娘はウインドショッピングと目的が違うから今日一日市内を案内してやって明日からは別行動の予定だ。ハロッズを手始めにリバティーというデパートに行ったら背中から「村岡さん」と声を掛けられた。振り向くと毛皮のコートを着た貴婦人がにこやかに立っている。
なんとご町内の山本さんではありませんか。
「お嬢さん？」「そうです」
お嬢さんでなかったら問題だよね。
そういえば前にもバッキンガム宮殿の前でご町内の、しかも日頃お世話になっている戸手診療所の小川先生に声を掛けられたことがある。医師会の旅行でこられたらしいが私と話し込んでいるうちに団体とはぐれて困ったらしい。
「山本さんは観光でいらしたんですか？」
「身内がロンドンにいるので遊びにきたんです。で、村岡さんは？」
「個展用の撮影で来ました」ちょっとキザな答えだったろうか。
山本さんと別れて家内に紫色のマフラーを買ったが後で「暖かくない」と文句を言われた。
中華街で夕食を済ませ、ホテルに戻る。
余談だが私の知る限り、ロンドンの中華街は世界一旨い。
一人旅ならスーパーの持ち帰りで済ませてしまうが連れがいるといい面もある。
ホテルに戻ったとたん娘はちょっと買い物に行くといって部屋を出た。
やがて帰ってきた娘は紙袋から大きなケーキを出して食べ始めた。中華料理はけっこうボリュームがあったのにケーキは別バラとでもいうのだろうか。最近の若い女性はコバラがへったなどとも言うがいずれも下品なな響きでわたしゃ好きじゃない。
娘は大きなケーキを抱え込み、甘すぎる、なんて文句を言いながら全部平らげてしまった。
翌日は別行動。私は先年カンタベリーに行く途中、車窓から眺めたメイドストーンという街が気になっていたので行って見ることにした。
手持ちのガイドブックには無視されている街なので駅から気まぐれに歩く。
１２月中旬、メインストリートにはクリスマスの飾り付けが施されていていい雰囲気だった。
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ホテルに戻ると相棒は部屋にいた。
「今日は参ったわ」
「どうした」
「お父さんがホテルカードを持っていってしまったのでいくら番号を言ってもキーを渡してくれないの。カードがなければパスポートを見せろというしそれもお父さんに預けてあるし、もうさんざんだった」
「なんとね」
これはローレンス・ブロックの小説（田口俊樹訳）に登場する私立探偵、マット・スカダーの口癖だ。
「なんとね」
もう一度つぶやいたら急にマッチョな気分になってきた。
「一緒においで」
「どうするの？」
「抗議してやる」
「だってお父さん、まるで英語なんかできないじゃん」
「そんなこと知るかい」
娘が指さした男は前から尊大で感じの悪いやつだった。
「エクスキューズミー」「？」冷ややかな目がかえってくる。
「あんた、マイドータにルームキーを渡さなかったそうじゃないか。プロなら客の顔くらい覚えろよ。それが出来ないならなぜカードを２枚渡してくれなかったんだ？。ふざけるな」
こんな内容のことを日本語でまくしたてたら相手の顔がだんだん青ざめてきた。
ほかの客もなにごとかと足を止めるし、見かねたのか少し離れたカウンターの中にいた男がホテルカードを持ってきた。日本語でも通じるじゃないか。
さて次の日はサウスイーストパスで娘と鉄道旅行である。
ヴィクトリア駅で缶ビールを買おうとしたら断られた。「日曜はだめよ」ということらしい。
とりあえずアランデルという城のある街に行く。列車が駅に近づくと田園の向こうに城の姿が見えてきた。まわりを取り巻く家々もこじんまりして小さな街らしい。
と思って駅を出たら田舎の割には車の交通量が多い。それがまた左右からびゅんびゅん飛ばしてきて切れ目がないのだ。横断歩道は見あたらないし呆然としていたら道の向こうから品のよい老婦人が笑い掛けてきた。お互いになかなかすれ違えないわね。そんな表情である。
残念ながら城は見学出来ず、守衛が裏に回れば湖があるよ、というようなことを説明してくれたが我々は街に興味がある。しかし街はとりたてて見るものもなかった。
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| アランデル駅 |
アランデル城
その後再び列車に乗ってボグナー・レギスという街に行く。
古めかしい映画館があつたり、冬のリゾート地はどこかもの寂しく、カモメの鳴き声だけがひびきわたっていた。ここはアランデルより気に入った。
私は一人で閑散とした海辺の道を歩いた。娘は勝手にそのへんをほっつき歩いているはずだ。
やがて合流して二人でフイッシュ＆チップスを食べたがすごいボリュームだった。
油ギタギタで体に悪いが体に悪いものほど旨い。ここではビールにありつけた。
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| ボグナー・レギス。古い映画館。 |
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| 海辺のホテル |
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| 冬の海 |
| サンタと少女 |
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疲れ果てて地下鉄の駅を降り、ホテルが近づいてきたら急に気が重くなった。昨夜はちと文句を言いすぎたかなと後悔してあの男がいなければと念じた。
ところが「なんとね」同じ男が立っていた。
ルームナンバーを告げると彼は直立不動で「イエッサー！」と応えた。申し訳ない。
| 夜のロンドン 冬のイギリスは夜が長い。夏は昼夜が逆転するからこの国に住む人は時間に対する体調管理がたいへんだろう。写真を撮る人間にとっては困ったもので普段は毛嫌いしている三脚を持参してきた。 夜景を写すためである。コベントガーデンで写していたらガードマンらしき服装の青年がやってきてしきりに話しかける。まるで理解出来なかったが肩をすくめて引き上げてしまった。待てよ、と後で考えた。もしかしたら三脚は使えないよ、ということだったのかも知れない。時折小雨が路面を濡らすが画面効果としてはありがたい。 クリスマスが近いので花売りのおじさんにもそんな雰囲気があり、写真を撮らせてもらった。
同じ場所では変化がないのでキングスロードへ行ってみることにした。 もうほとんどの店が閉店していて通りも人影が少ない。 弱々しい光を浴びたパブの建物を写していたらいきなり声を掛けられた。 若い女性だが英語なのでなにを言ってるのかさっぱり分からぬ。 だいたい西洋人というのは相手が理解しなくても平気で話し続けるタイプが多い。 黙って聞いていたらどうやらこんな場所よりビューティフルなところがあると言ってるようだ。 大きなお世話、写真というのは人によって撮りたい場所が違うのだ。 「ソーリ、アイキャントスピーキングイングリッシュ」 逃げを打ってみたが彼女は意に介さず私に付いておいでと歩き出した。相手が怪しい人間でないことは直感的に分かったが困ったものだ。案の定彼女はライトアップされた橋のたもとに私を案内して綺麗でしょう！という顔をした。 今更観光写真を写してもしょうがないから手まねであなたを写したいと伝えた。
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